写真を選んでいて
北羽新報には日々さまざまな写真が掲載されている。
記事への理解を助けるばかりか、時には記事よりも事実を端的に、そして的確に伝える写真は、見出しと並び、重要な役割を果たしている。
整理担当は、紙面に掲載する写真を選ぶのが日課だ。
数ある中に「これは素晴らしい」とうなるものがあれば、こちらも腕の見せどころと、レイアウトにも力が入る。
しかし、いつも記者こん身の一枚ばかりが出て来るわけはなく、複数の写真に優劣を付けて一枚を選びだすのは楽ではない。
例えば会議の様子を伝える写真。
バリエーションが豊富な状況ではないので画一的になるのは分かるが、「どこが違うの?」と言いたくなるほど同じような絵柄を複数出され、判断を委ねられる時もある。
若手の頃、自信を持って提出した写真をデスクに駄目出しされたことがあった。
被写体がカメラを意識して見る、いわゆる「カメラ目線」だったからだ。
「これでは記念写真」と撮り直しを命じられた。
写真の中に「人を入れて」とも、よく指示された。
花の写真ならば、見ている人がいるのが理想。だが、フクジュソウやミズバショウが自生する現場に、人がいる方が珍しい。
そのため花だけの写真になると、「図鑑だ」と言われた。
こういう指摘は一理あるが、以前ほどされなくなったように思う。
さりげない写真よりもカメラ目線の方がメッセージ性が感じられる場合があるし、人がいなくても工夫次第で伝わる表現はできる。
撮り方、価値観は時代とともに変わっているのだ。
(工)