語り継ぐ記憶 戦後79年⑪
陸軍大尉の兄戦死
川越 信也さん(88)能代市下瀬
「両親は陸軍大尉まで務めた兄を誇りに思っていた」。能代市下瀬の川越信也さん(88)は、20歳近く年が離れた兄信一さんのことを両親から聞かされていた。学業優秀で前途を嘱望されていた自慢の息子だったという。「親には『兄さんみたいに頑張らないと駄目だよ』と気合をかけられた。『でもなんぼ頭が良くても、戦争で死ねば何もならね』と言っていた」と戦争の無意味さを訴える。
大正6年生まれの信一さんは昭和13年1月、歩兵第17連隊留守隊機関銃中隊に入隊し、満州(現在の中国東北部)派遣のため同年4月から中国で兵役に就いた。日本と中国が武力衝突した支那事変で、多くの作戦や戦闘に従事。17年1月に河北省の戦いで銃弾を受けて戦死したという。
川越さんが自宅で保管している文書には、信一さんが山西省の「ニシ」作戦に携わったことが記録されている。「ニシ」は作戦の目標や地域、作戦の開始時期などを暗号化したコードネームとみられる。日本軍は資源が豊富で交通の要衝だった山西省の地域を占領することで華北で勢力を拡大し、抗日勢力を押さえ込もうとしていた。各地を転戦していた信一さんは、日本軍の一員として中国での戦争に深く関わっていた。
信一さんは歩兵の二等兵、一等兵、少尉、陸軍の少尉、中尉と階級を上げ、東条英機首相から陸軍大尉に任じられた。日本唯一の武人勲章である金鵄(きんし)勲章と勲五等双光旭日章を受章し、皇后陛下から直筆の色紙も下賜された。17年4月には市葬が執り行われたという。
「陸軍予備士官学校を卒業して入隊した兄は高い階級の人で、中国人と戦った時の軍刀も飾られていた。父は『能代山本で信一ほどの位の人はいなかった』と誇りに思っていた」と言う。兄の死で悲しみに暮れる父の様子が脳裏に焼き付いており、「父は座敷の囲炉裏(いろり)の前で何日も黙って座り続けていた。その姿を思い出すと今でも涙が出る」。
戦中戦後の過酷な食糧難もたくましく生き抜いた。パン粉に混ぜる食材としてアカシアの葉を採取したり、戦地の兵隊に食料として送るバッタを取りに行ったりした。「食べる物がなくて田んぼの落ち穂拾いもした。勉強もしないで、小学校の行事として食糧を探したりする時代だった」。
20年8月15日の終戦は同市栄町の家で知った。「足や背中に入れ墨のある能代弁ではない近所の人が、家から出て来て『日本が負けた』と触れ回っていた。その言葉を聞いて、『もうあの嫌な空襲警報がなくなる』とほっとしたことを覚えている」と振り返る。
戦争で犠牲になった兄の記憶はない。「戦争は国民ばかり損をするものだ。家やまちが破壊され、人も殺される。偉い人は前線に出ず、ああだこうだ言うだけだ」と憤る。世界では今も戦火が絶えない。「争い事の最大の解決方法はトップ同士が話し合うこと。人間なら解決方法は必ずある。戦争で解決することは不可能だ」と語った。
(若狭 基)