語り継ぐ記憶 戦後79年⑩

ソ連の侵攻におびえる
小松 金吾さん(94)能代市坊ケ崎

南樺太での過酷な体験を語る小松さん
南樺太での過酷な体験を語る小松さん

 「戦時中は希望を持てず、思うようなことができなかった」。能代市坊ケ崎の小松金吾さん(94)は南樺太(現在のロシア・サハリン南部)での凄絶(せいぜつ)な少年時代をかみしめる。
 小松さんは、青函連絡船航海士の父金蔵さんと魚問屋に勤めていた母ヤスさんが不況に伴い、親戚を頼って北海道の函館から南樺太・珍内に渡った昭和5年に生まれた。同18年、真岡中に入学。同校には将校2人が配属され、銃を扱う科目「教練」を知り、入学早々に圧倒された。
 同20年春、同級生の大半が海軍飛行予科練習生(予科練)などに志願。残った生徒は真岡から南に約10㌔離れた番屋に住み込み、ニシン漁の作業場で汗を流した。作業の最終日、浜辺で雑談していたところ、10㌔ほど先の沖合で石炭船が魚雷を受けて沈没。船が二つに割れ、石炭交じりの真っ黒な水柱を上げながら沈んだ。その衝撃は下っ腹に響き、戦争を実感したという。
 その日のうちに教師から次の作業場が決まったと言われた。汽車は外から身元が分からないように木の蛇腹で覆われ、行き先も知らされなかった。到着したのは450㌔以上北の古屯。雁門から採れる高純度の石灰岩を運び出すため、つるはしとシャベルで軌道を造った。
 同年8月8日、ソ連が日本に宣戦を布告。大雨が降り、9日未明に攻撃が始まった。退避する13日までの間に何度も爆撃があった。戦闘機を操縦するソ連兵の顔が見えるほど低空飛行だったという。「機銃掃射や投下される爆弾は恐ろしく、たった数日だが何カ月もひどい体験をした気分。生きた心地がしなかった」と振り返る。古屯の宿舎に防空ごうはなく、急いで穴を掘り身を潜めた。国境の方を眺めると半田沢の望楼が真っ先に攻撃され、負傷兵が次々と運ばれてきた。
 13日深夜、貨車で軍司令部がある敷香まで逃げ、真縫で貨車を降ろされた。久春内までの約40㌔を徒歩で横断。父がよく利用した旅館に宿泊し、バスで珍内に向かった。15日昼ごろ、到着してすぐに玉音放送を聞いた。「戦争に行かなくていいと思いほっとしたが、これからどうすればいいか不安だった」と語る。
 一方、ソ連軍の南下は進み、その統治下で働くことになった。はじめは銃を突き付けられ、おびえながら鋳物工場で働いた。言葉も通じず、言われる通りに従うしかなかった。当時近くにあった北海道帝大(現北海道大)演習林の責任者「横山さん」の指示で木材搬出にも従事。「横山さんのおかげで働けた。働かなければ何をされるか分からなかった」。
 引き揚げは同22年6月のこと。引き揚げ船内では安堵し、万歳をする人もいた。函館入港後は貨物船に収容され、消毒、検査、予防接種などを受けて上陸した。
 母の古里の能代に居を構えた後、市職員に採用され、公務員として人生を歩んできた。「少しでも早く戦争が終われば良かった。平和とは何か問い続けてほしい。争いのない恒久平和を願う」。

(牧野 大雅)

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