語り継ぐ記憶 戦後79年⑨

父の出征時、大泣き
柴田 悦子さん(87)八峰町峰浜目名潟

戦死した父、雄一さんへの思いを込めた俳句を作り続けている柴田さん
戦死した父、雄一さんへの思いを込めた俳句を作り続けている柴田さん

 八峰町峰浜目名潟の柴田悦子さん(87)は、戦地で父の雄一さんを亡くし、戦後の厳しい時期を母(故人)と妹の3人で肩を寄せ合い暮らした。懸命に生きた自らの人生を俳句で表現するようになって50年余り。亡き父を慕う気持ちや平和への願いを込めた句を今も作り続けている。
 雄一さんが召集されたのは、昭和12年生まれの柴田さんが5歳ごろのこと。同町遺族会の資料などによると、海軍の第45警備隊に所属した。太平洋に浮かぶパラオ諸島の防衛に参加した部隊で、昭和20年2月2日にパラオ本島で戦死したと記録が残る。36歳だった。
 「物資などの輸送のため、船に乗る仕事をしていたらしい」。戦中の雄一さんの足跡は、帰還者から伝え聞いたわずかな情報のみ。終戦後に届けられた骨つぼは、カラカラと小さな音がするだけで「お骨と言えるようなものは入っていなかった」と語る。
 幼くして別れなければならなかった雄一さんの記憶は、そう多くない。脳裏に浮かぶのは優しい笑顔ばかりだという。「3、4歳のころだと思う。家のベニヤ板の戸に落書きしたのを、父に『めっ』と叱られた。でも、顔は笑っていたんだよね」と振り返る。
 雄一さんが出征する際、目名潟の自宅で壮行の集まりが開かれたが、柴田さんは別れの表情を覚えていない。幼い柴田さんが大泣きして大変だったため米蔵に押し込められたと、後に叔母から聞かされた。「娘の泣き顔に辛(つら)い思いをしないようにという、周囲の配慮だったのかもしれないけれど…」とぽつり。しばらく経って国民学校に入学した後、学校裏手の駅舎に引率され、目にした壮行の場面に「何とも複雑な思いがした」と語る。
 夫に先立たれた母は、幼い2人の娘のため懸命に働いた。自宅裏手の農地を耕し、能代へ木材関係の仕事に歩いたこともあったという。「女手一つで、私と妹を育ててくれた。がりっとしたものだった」。
 父の不在を辛く感じることは、成長するにつれて多くなっていった。宿題で分からない部分があった時、「父なら優しく教えてくれたはず」と恋しさが募った。学校で辛いことがあっても母には相談できなかった。悲しい思いをしている母に心配を掛けたくなかったからだ。「戦争がなければ、こんな思いはしなくて済んだはず」と語る。
 農業を営み、3人の子どもをもうけた柴田さん。仕事、子育てと同じくらいの情熱を注いだのが、30代半ばから始めた俳句。これまでに自費で2冊の句集を制作した。「防空ごう 掘れない母子 蛍の夜」「骨箱の 父の軽さや 青葉光」「父の日を 疎みて育つ 遺児なりし」──。戦中の心細さや、父の命を奪った戦争の無情を表現した句は数多い。
 「とにかく戦争が嫌だ。戦争のない世の中にするにはどうしたらいいのか、考え続けている」という。最も大切な一句に「平和へとの 父の遺志継ぐ 水芭蕉」を挙げた。

(川尻 昭吾)

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