語り継ぐ記憶 戦後79年⑧

二つの悲しい別れ経験
米川 和子さん(82)能代市二ツ井町飛根

戦死した父親や、別れることになった母親の話を語る米川さん
戦死した父親や、別れることになった母親の話を語る米川さん

 物心がついた頃、玄関に写真が飾ってあって、おばあちゃんから「これがお前の父親だよと教えられ、それが父だと思って毎日見ていた」。能代市二ツ井町飛根の米川和子さん(82)はそう振り返る。
 米川さんの父三助さんは、大正4年5月16日に農家の長男として生まれた。7人きょうだいでただ1人の男児だった。昭和19年5月15日に召集され、同年8月10日に福岡の門司港からフィリピンに向かい、ルソン島の北サンフェルナンドに上陸、翌20年4月20日にルソン島バタンガス州クエンカで戦死したとされる。
 3歳足らずで父親と離れ離れになった米川さんは、「父が私をおんぶしていたとか、いい男で、いっぱい仕事をした立派な人だった
とかと話を聞いたが、全然記憶にない」と言う。
 戦争についても、「飛行機が来ると、『B29だ、逃げれ』と言われ頭巾をかぶって防空壕(ごう)に逃げたことや、大根の葉を混ぜてたいたご飯を食べ切れなかったことを覚えているくらい」とする。
 幼い米川さんには当時、もう一つの悲しい別れがあった。三助さんが戦死し、残された母フジヱさんが、自分を置いて実家に戻ることになった。
 「父が戦死し、家には女のきょうだいが6人もいる。母は、嫁として居られなかったのでは。私は長男の子だということで、残された。母親の家族が来て相談したんだろうね」と当時を推察し、「別れる時、いくら泣いたか分からない」と思い起こす。その後は祖父母に育てられた。
 今年のお盆に寺を訪れた際、幼い頃に近所に住んでいた人に声を掛けられ、母親の話をされた。「『和子を頼むと言っていた』などと聞かされ、周りに人がいる中で泣いてしまった」とまた、目頭を押さえた。
 父親の最期の地をその目で確かめ、慰霊したいと、フィリピンへの慰霊巡拝に何度も参加した。「6、7回になるかな。父に会いたい一心だった。成長した姿を見てほしかった。海を見ても山を見ても、どこを見ても、父はここを歩いたんだろうなと思い、何回行っても狂ったように泣いてきた。行く人みんなが同じ思いだった」。
 自分で調べるなどし父親の生涯を年表にした「顕彰」や勲章、写真を並べた額を作り、座敷の床の間に大切に飾っている。
 長年にわたって遺族会の活動に加わり、今月20日に開かれた市遺族大会では大会宣言を読み上げた。「遺族会も、遺児たちがどんどん亡くなってしまった。声を掛けても皆、年も取り足が痛い、腰が痛い、このぬぐみ(暑さ)だと行けないとか。無理はさせられない。私も年がいってきたけど、できる限り活動は続けたい」と語る。
 今年で戦後、そして父親の死後79年。「なんで戦争をしたのか。今も世界で戦いが続いている。なんで争うんだろうかと思う。不幸な人が残ってしまう。けんかをしなければいいんだけどね」と、平和を願う。

(池端 雅彦)

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