語り継ぐ記憶 戦後79年⑦

体調優れぬ父 なぜ出征
石田 敬一郎さん(86)藤里町藤琴

「お互い生の声で話したい」と願い、父をしのぶ石田さん
「お互い生の声で話したい」と願い、父をしのぶ石田さん

 藤里町藤琴の石田敬一郎さん(86)が小学1年生だった昭和18年11月、父・敬助さんはパプアニューギニア北部・ウェワクから先の山中にある兵站(へいたん)病院で亡くなった。出征前から体調を崩していたこともあり、現地で病死したと伝え聞く。31歳だった。激戦となった南方戦線であり、ついに遺骨さえ帰って来なかった。
 当時の石田さんの家は高山下にあり、4人姉弟。敬助さんは出稼ぎもしながら一家を支えていた。30歳になり「きっと戦争には行かなくてもよさそうだと安心していたみたいだった」という。しかもその直前、敬助さんは体調を崩しかなり衰弱していた。しかし戦況の悪化とともに同年夏、召集され、3カ月間の訓練を受けただけですぐ、船舶揚陸隊として現地へ向った。
 父が出兵する日、帽子をかぶって手を振る父の姿が目に焼き付いているが、抱きしめてもらった記憶はない。「たぶん、生まれたばかりの弟の方を抱いていたと思う。私は母の陰に隠れて、ただ不安だったし、なぜこんなに弱って苦しがっている人を戦争に行かせるのか、子どもながらに怒りがあった」と思い返す。「出稼ぎで家を空けることが多い人だったので、帰って来るとうれしくてうれしくて。いつも、『もしかしたら帰って来ないんじゃ』という思いがあったんだと思う。その分、戦争に行く時には、もう父は帰って来ないという予感がした」。
 後に、父のことをもっと知りたい一心でさまざまな話を聞くうちに知ったことだが、「召集兵を選ぶ役人が何人か国から指定されていたようだ。その人が指定したら召集される、そういう仕組みと聞いた」。父を戦争に送り出したという思いから、その後しばらくは「役場職員の顔は見たくなかった」と振り返る。
 戦後、戦跡巡拝に参加し、父が亡くなった地を訪れた。「30歳を過ぎたころだったろうか。それまでは何か、雲の上を渡っているかのようにも感じていたけれど、現地に行って、父が死んだのは本当のことだったんだなと思えた。現地に行けたことで何となく親孝行ができたのかなとも思えた」。
 今になってみると父の思い出はいいものばかり。「仕事から帰って来ると『来い、来い』と言って抱っこしてくれて。にこやかで、他人に辛(つら)く当たることはなかった。けれど、それも人から聞いた話。走りも速く、相撲も強くて地域の大関だった。私も走りは得意だったし相撲も取った。スポーツ好きは父に似たのだろう」。
 鮮明に覚えていることがある。昔の家は長い敷居板で、ある日、父とその上で腕相撲をした。負けて板に押し付けられた石田さんの腕の肉が敷板の間に挟まり、「痛いのなんの」と笑う。「それが最高の思い出で、最後の思い出」。
 「最近、身体が弱くなるほどに何かあるたびに父のことを思い出す。今の願いは、お互いに生の声で話したいなということ。年を取れば取るほど、そう思うようになってきた」と、幼くして引き離された父に思いを寄せる。 

(岡本 泰)

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