語り継ぐ記憶 戦後79年⑥

せめて髪の毛1本でも
田村隆さん(89)八峰町峰浜水沢

「戦没者芳名録」を手に戦時中を振り返る田村さん
「戦没者芳名録」を手に戦時中を振り返る田村さん

 八峰町峰浜水沢の田村隆さん(89)は、叔父の田村義雄さんをフィリピン・ミンダナオ島で亡くした。終戦1カ月前の昭和20年7月16日に戦死。27歳の若さだった。遺骨などはなく、死亡告知書だけを受け取った。「あと1カ月生きていれば帰って来られたかもしれない。せめて髪の毛1本でも受け取りたかったが、紙しかもらえなかった。悲惨な死に方だったのだろう」と語る。
 田村さんが3歳ごろの時、義雄さんが一時帰宅してきた。近所の沢目駅で汽車から降り立った義雄さんに、頭をなでられたり抱っこされたりした時をなんとなく覚えているという。「長い腕と大きい手で抱きかかえられ、優しくて暖かかった覚えがある。それが叔父と触れ合った最後の記憶だ」。
 日本軍が米国を奇襲し、太平洋戦争の始まりとなった真珠湾攻撃。幼かった田村さんは日本の勝利を信じていた。
 友達との遊びは、木の棒を刀に見立てたチャンバラから、戦時中には家の周りでもっぱら木を銃のようにして遊ぶ「戦争ごっこ」に変わり、近所の田んぼのあぜ道などで楽しんだ。「勝って来るぞと 勇ましく」が歌い出しの古関裕而作曲で昭和12年発売の軍歌「露営の歌」を幼いながらに口ずさみ、「日本が戦争に勝つことは当たり前のことだと受け止めていた」。
 日本軍はその後も戦いを続けたが、昭和20年8月15日に終戦を迎える。その日、田村さんは通院のため汽車に乗って能代市に行き、市内中心部にあった耳鼻科の畳の待合室で1人、診察されるのを待っていたという。
 ラジオで玉音放送が流れたのはその時だった。「天皇陛下は独特な言い回しだと感じた。初めは何を言っているのか聞き取れなかったが、その後、日本が戦争に負けたことが分かった。まさか負けるとは信じられなかった」。
 終戦後、自宅に義雄さんの死亡告知書が届き、家族は悲しみに暮れた。田村さんも「生きて帰って来てほしかった」との思いが消えることはない。
 家族から、義雄さんは絵が上手だと聞いた。若い頃、よく漫画を描いていたという。田村さんも絵を描くのが好きで、「叔父に似たんだな」と笑う。
 一方で、父儀一さんは戦争について多くを語らなかった。田村さんは「父親は召集されたようだが、戦地までは行けずに途中で戻って来たようだ。子どもからしたら戦争で死ななくて済んだと思うが、本人は戦争に行けずにどう思っていたのだろうか。本心は分からない」と言う。
 当時を振り返ると、「日本は戦争に負けて良かったという思いも心の片隅にある」。戦争が長引けば「私たちも命を落としていたかもしれない。あの時終わって良かった」との思いを抱く。ロシアによるウクライナ侵攻など今もなお争いが後を絶たない中、「戦争は絶対にあってはならないことを日本は負けて学んだ。戦いではなく、話し合いで解決できる世界にならないといけない」。 

(山田 直弥)

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