語り継ぐ記憶 戦後79年⑤

戦地で散った父を思う
佐藤恵悦さん(84)能代市昇平岱

 「おかあ、チャー(お父さん)が帰って来た」。軍人の姿を見た幼子は、戦地の父親が生還したと喜んだが、見間違いだった。父親は戦地で散り、残された母子の暮らしは苦しく、母親は行商をして家族を支えた。今でこそ感じている「普通の幸せ」が、遠かった。
 佐藤恵悦さんの父・春吉さんは昭和18年10月、臨時召集で軍隊に入った。出征する前には地域の人たちが家に集まり、「誉れ」としてにぎやかに飲み食いした。
 佐藤さんは幼かったが、その時に春吉さんのあぐらの上に座った記憶がある。「まだ小さかったから、もう父親に会えなくなるとは思っていなかったと思う。父親はどういう思いで息子(自分)をあぐらに乗せていたものだろうか」と記憶をたどりながら語る。
 春吉さんが出征した後、佐藤さんは、けがをして古里に戻って来た他の軍人の姿を見て春吉さんだと思い、母・ウメさんに「チャーが帰って来た」と伝えた。ウメさんは、勘違いをした佐藤さんを「ばかけーっ」と叱った。「母親は、父親が無事に帰って来ることはありえないと考えていたのだろう」。
 家族を残し、春吉さんは19年8月にマリアナ諸島のテニアン島で玉砕。35歳だった。当時、ウメさんは32歳、佐藤さんは4歳、姉が6歳、妹は1歳。母子4人での暮らしが始まった。
 ウメさんは春から秋は他の家の農作業を手伝ったが、秋から春は行商を行い、菓子や彼岸花などを作っては売りに歩いた。佐藤さんも彼岸花作りを手伝った。家には電気がなく、子どもたちだけではランプを使うことができない。子どもたち3人は、ウメさんの帰りを家の外で待った。「帰って来るのが待ち遠しかった」。
 生活は苦しく、「子どもが集まればどんなこともした。みんな生きるのに必死だった」と言い、他の家の長いもを頂戴したこともあった。行商のお金でウメさんに買ってもらった長靴を学校で盗まれたときは悲しかった。「貧乏をすれば、どんなことも起きる。母親も苦労したし、子どもたちも我慢しながら暮らしていた」と振り返る。
 ウメさんは子どもたちに和裁や木工など「手に職」を付けさせた。それぞれが家庭を築いたのを見届けてから、平成10年に病気でこの世を去った。
 「自分は今、普通の生活をし、好きなことをしている。昔は貧乏だったが、今は幸せ。もし戦争がなければ、父親も同じような生活をしていただろうし、母親も行商をせずとも暮らせたはずだ」。戦地に散った父親と、苦労して家族を支えた母親を思いながら話す。
 戦後79年という長い年月が経ったが、ウメさんから教わった彼岸花の作り方は、今も覚えている。「戦争のことを知っている人はどんどん少なくなってきた。若い人や子どもたちに、戦争の体験をもっと語ることが必要。戦争の苦しみはどこの国だろうと、いつの時代だろうと同じだ」。紙と串で彼岸花作りを再現しながら、思いを語った。

(山谷 俊平)

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