語り継ぐ記憶 戦後79年④

平穏な日常 敗戦で一変
棚橋晴生さん(89)能代市西通町

中国・天津日本租界での日々を語る棚橋さん
中国・天津日本租界での日々を語る棚橋さん

 昭和20年8月16日。青天白日旗を付けたグラマン戦闘機が中国・天津日本租界の上空を低く旋回した。その数、3機か4機。前日の玉音放送で戦争に負けたことは分かっていた。ベランダに上がり、大好きな飛行機を眺めていると、操縦士がニヤっと笑ったように見えた。「ああ、日本は負けたんだ」。敗戦を強く実感した。10歳だった。
 天津居留民団の土木課の課長を務める父黒田森太郎さん、母シモさんの間に10年2月誕生。六つ上の兄の森生さん、三つ上の姉の富代さんも天津生まれ。日中戦争に突入(12年7月)、太平洋戦争が開戦(16年12月)しても戦争の影を感じることはほとんどなく、「比較的、のんきな暮らしでした」。当時の外務省の資料によると、11年12月末時点の天津市は人口125万人を超え、そのうち日本租界は3万6650人で、7割が中国人、「内地人」は7750人。「内地人」は増え続け、16年1月1日では2万1156人に上る。
 16年春、芙蓉国民学校へ入学。橘街にあった自宅のすぐ近く、4階建てくらいの立派な建物だった。淡路国民学校の子どもと出くわすとけんかになり、「けんかは大嫌い。逃げてばっかりいました」。フランス租界にも遊びに行ったが、しかられた記憶はない。日本人同士だけでなく中国人の子どもとも仲良く遊んだ。B29らしい飛行機を見たのは一度きり。点にしか見えないほどの高度を飛んで行った。
 そんな「平穏」な日常は敗戦で一変する。20年8月15日。甲種予科練に合格した兄はすでに内地へ行き、玉音放送は両親、姉と自宅で聞いた。父の「ああ、軍閥にだまされた」という言葉が耳に残る。居留民団も学校も閉鎖され、国民党軍が進駐してきた。
 「隣のおばあさんが、『兵隊さんがぎょうさん来はりましたけど』と、扉をドンドンとたたく。開けたら、だーっと入ってきた」。広東語と思われる言葉を話す7、8人の兵が押し入る。父が「逃げろ」と目配せし、素早く外へ出ようとしたが捕まり、縛られて畳に座らされた。目の前で物色され、引き揚げに備え厳選した荷物を奪われた。
 日本人が外へ出ると中国人に殴られ、モノを奪われるということもあったといい、家族4人で自宅内に閉じこもる日々が続く。父と一緒に仕事をした中国人が情報や食べ物を差し入れてくれ、生き延びることができた。豚肉の角煮のおいしさ、父がこぼした涙は、今も忘れられない。
 21年3月末、塘沽の港から上陸用舟艇に乗り込み、山口県の仙崎へ入港。初めて満開の桜を見た。兄とも合流、長崎県佐世保市の早岐にあった母の実家へ家族5人で身を寄せた。引き揚げ前、写真は持ち出せないと流布され、天津時代の写真は一枚もない。
 「後で聞いた話です」と語る。「兄貴は潜水服を着て、長い竿の先に爆弾を付け、敵の船が来たら下から突き上げる特攻隊の訓練をさせられたそうです」。特攻戦法「伏龍」。もし、実戦投入されていたら、兄は──。
 平和とは、と改めて問うと、「平和は、基本は政治だと思うのです。これからの世の中は、一言で言うと平和であってほしい。でも、なかなか、どうやったら平和になるのか」。やるせなさそうに、苦笑いを見せた。

(渡部 祐木子)

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