語り継ぐ記憶 戦後79年③
別れの一本杉で見送り
近藤ヤス子さん(84)三種町下岩川
「母によると、お父はあぐらの上に私たち姉妹を座らせ、めんこがって(かわいがって)くれるなど子煩悩だったようです」──。三種町下岩川字達子の近藤ヤス子さん(84)は、母親のチワさん(故人)から聞いた話も大切にしながら、昭和20年3月20日にフィリピンの首都・マニラ市の山中で33歳で戦死した父親の小澤勝治さんに今も思いを寄せる。
近藤さんは昭和15年に勝治さん、チワさんの第1子として同町下岩川字向達子に生まれ、三つ年下の妹と共に育てられた。両親はコメ農家だった勝治さんの兄
を手伝い、冬は炭焼きで生計を立てた。
戦時中で、空襲警報も耳にした。「空襲警報が発せられると、一度外に出て空を見上げた。戦闘機を見た記憶が残っている」と近藤さん。家の中を照らす裸電球の明かりが外に漏れないように、窓は黒色の紙で覆った。そうした警戒が日常生活にあった。
分家として本家を支え、裕福でないながらも家族4人が寄り添って暮らしていたが、昭和19年6月に勝治さんが陸軍に召集された。戦況の悪化に伴う動員。向達子集落には出征する下岩川地区の住民を見送った場所「別れの一本杉」があり、近藤さんは「出征の意味は詳しく分からなかったが、お父が見送られる立場で、多くの人が集まってにぎわい、うれしく感じたのも事実。大人たちは、出征者に対して国に尽くすように大きな声を張り上げていた。そういう時代だった」と振り返る。
勝治さんは直ちに戦地に向かうわけでなく、秋田市内の軍関連施設で過ごした。近藤さんはチワさんに連れられて妹と3人で軍関連施設を訪ね、勝治さんと面会した。「お父とどんな会話をしたかは覚えていない」と言うものの、「車がない時代であり、お父に会うため、向達子の家から森岳駅まで片道1時間以上、砂利道、ぬかり道を歩いた思い出がある。母は妹をおんぶして歩いた」と話す。
勝治さんとは軍関連施設で2回会ったが、3回目の訪問では会えなかった。後にチワさんから、勝治さんが戦地に向かったことを告げられた。「お父にもう会えないかもしれない」と思い、母子3人で手を握り合った。
勝治さんは19年9月に南方に向かい、20年3月にマニラ市の山中で戦死した。「母が教えてくれたが、自宅に届いたお父の死を伝える木箱に入っていた紙には『マニラで戦死』と書かれているだけで、骨や髪、爪といったお父を感じられるものは何一つなかった。それでも、お父が亡くなったと受け入れるしかなかった」。
ただ、「もしかしたら、お父はどこかで生きているのではないか。帰って来てほしい」という思いも抱き、下岩川地区に戦地から引き揚げてきた人に勝治さんのことを聞きに出掛けたこともあった。
5歳の時に戦争で父親の勝治さんを失った近藤さんは言う。「戦争に勝とうが、負けようが、得する人は誰一人いない。みんな、心に傷を負う。戦争は絶対に繰り返してはいけない」。
(宮腰 友治)