語り継ぐ記憶 戦後79年②
父眠る海や空脳裏に
渡部 愛子さん(84)能代市落合
能代市落合の渡部愛子さん(84)の父渡部吉蔵さんは太平洋戦争末期の昭和19年6月1日未明、マリアナ諸島西方のフィリピン海で戦死した。享年37。日本海軍が徴用した船で西太平洋のパラオ諸島に向かう途中、米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。吉蔵さんが日本統治下の同諸島で戦禍に巻き込まれた時、渡部さんは4歳だった。幼いながらに戦争を肌で感じていたといい、「苦しい生活だったことを覚えている。戦争は絶対に反対」と平和への願いは生涯消えることはない。
海軍の上等兵曹だった吉蔵さんは昭和19年5月17日、大連汽船の「東豊丸」(4716㌧)で千葉県の館山から出航し、同25日にサイパン島に到着。同30日にパラオに向け出航したが、航行中の6月1日午前3時45分ごろ、アメリカ海軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没し、船員ら53人が戦死した。
大連汽船は日中間を運航する南満洲鉄道(満鉄)の海運会社で、物資や人員を運ぶ輸送船団として航海し、潜水艦による攻撃を受けやすかったとされる。「父は船の機関室にいて、深い海に沈んだ。たまたま同じ船に乗っていた向能代の山田さんという方は沈没時にふんどしのひもが建材にひっかかり、海に浮かぶ木材につかまって助かったと聞いている」。
落合の実家では空襲警報が鳴るたびに近くのやぶに逃げたという。「サイレンが解除されるまでみんなしゃがんでじっとしていた。子どもも結構いたが、長老に注意されるので黙っていた」。庭に浅く掘った畳1枚分ほどの小さな穴に板をはめただけの簡易な防空壕(ごう)に隠れる人もいたと言い「とても爆撃に耐えられるものには見えなかった」。
国民に敗戦を告げる昭和20年8月15日の玉音放送は近所の家で聞いた。「昼に大事な発表があると言われ、ラジオのある近所の家に住民が集まった。みんな静かに聞いていたが、大人は『戦争に負けた』と言って泣いていた。私は意味がよく分からなかったが、戦争が終わったことは何となく理解できた」。父の戦死を知らせる書状が届いた20年2月から半年がたっていた。
「母は『父さんの遺骨を探しに行きたいけど、海で死んだんじゃ無理だよね』と言っていた」。大人になった渡部さんは平成20年10月、日米の激戦地となったパラオ諸島への慰霊友好親善訪問(日本遺族会主催)に参加した。亡き母の遺志を継いで、美しい太平洋に浮かぶ島々を回った。昭和19年9月に4万人の米軍が上陸し、日米両軍の兵士の血で海が真っ赤に染まったことから名付けられたオレンジビーチにも立ち寄った。「美しい砂浜で、『お父さん迎えに来たよ。一緒に帰ろう』と大声で呼び掛け、手を合わせた。父の眠る青い海や空の色をしっかりと脳裏に焼き付けた」。
ロシアのウクライナ侵攻など世界では今も戦火が収まらず、多くの命が失われている。「戦争は残酷で悲惨なもの。絶対にやってはいけない」。
(若狭 基)