語り継ぐ記憶 戦後79年①

毎晩のように空襲警報
富樫 トミさん(94)能代市坊ケ崎

東京や神奈川、福島で戦火をくぐり抜けてきた富樫トミさん
東京や神奈川、福島で戦火をくぐり抜けてきた富樫トミさん

 能代市坊ケ崎の富樫トミさん(94)は、戦時中、飛行機を造る軍需工場に勤務し、東京や神奈川、福島で戦火をくぐり抜けてきた。「戦争でたくさんの人が亡くなった。若い人たちが生きていくこれからの世界はどうか平和であってほしい」と願う。
 昭和19年2月に榊国民学校を卒業して間もなく、同級生ら数人と東京・蒲田に工場がある「富士飛行機」に集団就職。「学校の先生が『あなたはここ、あなたはここに行きなさい』と就職先を振り分けた。希望を聞くわけではなく、どんなところかも何も分からないまま向かった」と言う。
 男性ばかりだった会社に、富樫さんたち30人ほどの女性が入社。カーキ色の作業着と靴、防空頭巾が支給され、清掃作業や作業着の補修、工場まで部品を届けるといった雑務のほか、勉強や運動の時間もあった。「英語や国語、数学など先生が来て勉強を教わったり、みんなでドッジボールをする日もあった」と語る。
 「面倒見のいい会社だった」が、軍服を着た教官がいつも監視していた。敵兵と闘う場面を想定し、わら人形に向かって竹やりを突く訓練も行われ、「いま思うと漫画みたいでおかしいが、当時は言われた通り真面目に一生懸命やった」と振り返る。
 その年の秋から東京空襲が本格化。神奈川の川崎にあった会社の寮から、多摩川を挟んで東京の空襲が見えた。「最初は怖くて泣いたり騒いだりしたが、慣れてしまうのは恐ろしいことで、川の向こうを花火を見るように眺めるようになった」。毎晩のように空襲警報が鳴り、作業着に着替え、防空頭巾をかぶって整列し点呼を受けた。班長だった富樫さんは「○班○名、異常ありません」と報告して防空壕(ごう)に走った。「警報も最初はおっかなかったが、慣れれば『またかあ』って。夜中に起こされて着替えるのが難儀だった」と語る。
 戦局が厳しくなると、女性たちは一時故郷に帰された。「数人ずつ、着の身着のまま散り散りバラバラに帰った」。3月の東京大空襲、4月の川崎大空襲には遭遇せずに済んだ。
 会社は福島県平市(現いわき市)に工場疎開。富樫さんは福島での勤務を命じられ、再び能代を離れた。寺の本堂で寝泊まりし、地元農家の作業を手伝った。「白米に豆が混ざったおにぎりを昼ご飯にいただいて、最高のごちそうだった」。
 福島では身近な人の死に直面した。工場の〝食堂のおばさん〟2人が、低空飛行で近づいてきた戦闘機の機銃掃射で犠牲になった。 「火葬に立ち会ったが、今とはほど遠いもので、一生忘れられない」と涙をにじませ、戦争の恐ろしさとして記憶に刻まれている。
 終戦の日、寺の本堂で玉音放送を聞いた。雑音が混じり、途切れ途切れだったが、住職の奥さんが「戦争、終わったみたいだよ」と教えてくれた。
 戦後79年たっても世界では戦争が絶えない。「兵器をつくる競争をしていたら戦争はなくならない。孫やひ孫、若い人が生きるこれからの世界は平和であってほしい」と力を込めた。

(成田 結子)

戦後79年の夏、能代山本の住民に残る戦禍の記憶を取材した。

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