王者の危機管理

 学生時代の思い出の地を巡った。東京で最初に一人暮らしをした部屋はもうなかった。アルバイト先も訪ねたが、建物があるだけ。よく通った「町中華」の店は、店主が代替わりしていたものの営業を続けていた。あの頃と同じカウンターで炒飯と餃子、ビールを頼んだ。

 これまで上京することがあっても、卒業から一度も訪れたことはなかった。ノスタルジックになったのは5月に東京ドームで行われたボクシングのせいだ。

 東京ドームでのボクシング興行は34年ぶり。前回のメインカードは世界ヘビー級タイトルマッチで、絶対的王者のマイク・タイソンがKO負けした。ボクシング界最大の番狂わせともいわれるこの試合を学生だった私は会場で目の当たりにした。

 今回はスーパーバンタム級の世界4団体統一王者、井上尚弥とルイス・ネリの一戦がメイン。井上が6回TKO勝ちしたが、1回にダウンを喫した。その時、王座陥落が脳裏をよぎったのは私だけではないはず。しかし、チャンピオンは冷静だった。キャンバスに片膝をつき、レフェリーが「カウント8」を数えるまで休み、立ち上がった。プロ、アマ通じて初のダウンなのに焦ることはなかった。

 以前から「ダウンの練習をしている」とは話していた。試合後のインタビューでも「普段のイメトレがここで出たと思います」と語った。

 自然災害はもちろん、さまざまなトラブルに我々はいつ、どこで遭遇するか分からない。被害を最小限に抑え、回避する危機管理の重要性を、最強王者が見せた咄嗟(とっさ)の行動から改めて感じた。

(工)

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