街なかの草木に思う
緑から深紅へとグラデーションを描くように色づいたツタ草が、秋の陽光を浴びてそれはそれは艶やかで鮮やかであった。
「あでやかだなあ、きれいだなあ」とちょっと感動した──のだが、果たして、そう思っていいのか、迷った。
街なかで、紅葉スポットを探していた時のこと。
それは、明らかに、営む人を失った空き店舗。
住む人のいない空き家。
ツタ草は、その建物を這うように上り、壁一面を覆い、屋根にも届く。
ある一軒家では、軒から壁伝いに下り、玄関ドアを覆い始めていた。
ツタ草の元気ぶりからして、ドアを開け閉めした形跡はうかがわれない。
郊外や能代港方面に車を走らせた時に見かけた、ツタ草にすっかりくるまれた柱状や直方体の物体は、何かの支柱であったか、看板であったのか。
恐竜っぽいシルエットのそれは、もしや街灯だったのだろうか。
ツタ草に限らず。
国道など幹線道路沿いの緑は目に鮮やかでドライブをより楽しくさせた。
が、年々、もっさり感が増し、うっそうとし、トンネル化さえしているような…錯覚だろうか?
野山の草木のたくましい自生とは趣を全く異にする、件のツタ草の勢いや、緑の「もっさり」に共通して感じたのは、ひとけのなさ。周りには住家も店舗もあり、車はぶんぶん走り、人々は近くにいるのだけれど。街の草木が人の暮らしになじみ、潤いとなるには、世話をし、管理する人の手があってこそと、今さらながらに気付く。人から放置され、何とも物悲しい草木になってしまってはいないか。
ところで。
毎年毎日、街路樹の落ち葉掃きをしてくださる沿線のお宅の皆さん、ありがとうございました。
街を慈しむ市井の人の手で街は維持されているのだと思います。
(渡部 祐木子)